manaさんがブログで“ADHDちびっこ時代の話”を書いてくれました。読んでて共感できます。笑いながら読みました。ありがとうございます。
manaさんをパクって、私も昔話をしたいと思います。実は結構前から書こうと思ってて、ブログの“下書き”には中途半端に書いたものがあるのですが、めんどくなって半年くらい放置してここまできました。
反省としては“一気に全部書こうとしすぎ”たのかな、と思います。

なので、小分けにします。今回は幼稚園くらいまで。
とは言え、いつも通り書いてたら長くなっちゃいました。こんなしょーもない内容なのに8,000字近くあります。ご注意下さい。


う○こじゃなくて、ちひろでした

母が私の出産エピソードでよく言うのは、「本当に我慢するのが大変やったわ〜」という事です。
その日の早朝、母は便意を催してトイレに行きます。

「うー出るー…ん?ん?あ、これう○こじゃなくて赤ちゃんや!ヤバい!

時刻にして朝の4時頃、母の叫びがこだまします。
飛び起きた祖父が急いで車を用意し、それに飛び乗って病院に行きます。

「まだ、病院まで待ってくれ…!」

母の必死な努力により、何とか病院に到着
つくやいなや、ようやく安心した母はスポン!と私を即産んだそうな。

「ほんとにね、スポン!って感じ。スポンって出たんだよ!ほんとスッキリしたな〜」
と微笑ましいエピソードのテンションで母はよく語ってくれます。
が、私としては「なんじゃその話!」という感じです。

馬小屋で産まれ聖徳太子は厩戸皇子なんて言いますが、私はもうちょいで厠姫になるところでした。(姫じゃないけど)
出産したことないのでわからないのですが、産気と便意って似てるのでしょうか?
う○こと子どもを勘違いするのは何とも母らしいな、と思います。

そんなこんなで無事に誕生しました。
誕生秘話は下品になってしまいましたが、ここから幼少期のエピソードに入ります。
前置きすると、幼少期の記憶ってほぼ無いです!
びっくりするくらい抜けてます。
小学校上がる頃には既に記憶が無かったので、よっぽど消したい過去だったのか?と思います。笑


ASD傾向バリバリだった幼稚園時代

オフ会で私と会ったことがある方ならわかるかもしれませんが、私、めちゃくちゃ喋ります。
友人に「リアル俺の人生で今まで発した言葉の3倍は喋ってるよ、キミ」と言われたこともあります。
今この瞬間死んだとしても普通の人の人生分くらいは既に喋ってます。
何を?と言われると、頭に出てくる言葉をフィルターに通すことなく止めどなく言葉として発してしまうのです。(このブログみたいな感じ)
思いつく→どう発言するか考える→発言
というプロセスを大概の人は行うみたいですが、私の場合
思いつく→どう発言するか考える→発言
発言しかないです。考えるより先に言葉が出て、その後に「あれ?なんでこんな事言ったんだ?」と自分でもわけわからなくなります。

そんな典型的ADHDな私ですが、幼少期はASD傾向バリバリでした。
全く…本当に全く喋らない子どもで、幼稚園に行っても一言も言葉を発することなく帰るのが常でした。
だからたまーーーに誰かと喋ったときはうっすらと記憶に残っています。
それくらい喋れない子どもでした。

しかし、決して考えてないわけではありません。
頭の中ではぐるぐると思考は回っていたのですが、それをどう言葉に変換し話していいのかわからなかったのです。
思えばこんな事誰も教えてくれません。
アナウンサーの話し方教室とかはありますが、自分の思考をどう変換して言葉にするのかを教えてくれる所って無いですよね。
いや、書いてて思いましたが、探せばあるかもしれません。(どっちやねん)
とにもかくにも、自分で話し方を取得するって難しすぎませんか?たかだか生まれて1年2年で習得する方が凄すぎるだけであって、私は自分が普通だと思ってます。笑
私以外はみんな天才か?という気持ちです。
私のコミュニケーションでギリいけたのは、Yes / Noで答えられる質問に対し、頭を縦にふるか横にふるか、の回答だけです。
そんなわけで友達はもちろんゼロでしたし、先生からもバチクソに嫌われてました。笑


遠足の帰り道で鼻水を隠し通した事件

そんな喋れない人間だったので、不自由が沢山ありました。
遠足で小さい山に登った時の話です。下山の時、思わずくしゃみが出ました。
くしゃみの時に両手で鼻を抑えたのですが、それが良くありませんでした。
くしゃみのせいで、めっちゃ鼻水が出て、両手にべっとりついたのです。
「(うわー。これめちゃくちゃ汚いやん)」というのを凄く強く思い、私は鼻水が周囲にバレるのが嫌で、手で鼻を抑えたまま硬直します。
「(ハンカチやティッシュを出すにも、一旦鼻から手を離せば、鼻水がベローーンとなっちゃう…それは嫌だ!)」
鼻水バレする事にあまりに強い抵抗を持った私は、”鼻に手を当てたまま乗り切る”という手段をとりました。
絵だとこんな感じ

周りのクラスメイトたちが「な〜〜なんで鼻おさえてんの?」とか言ってきましたが、無視です。(まあ普段から喋らないので通常通りなのですが、クラスメイトから話しかけられる事自体がレアなので、すごくドキドキしました)
無理矢理手を離させようとする子もいましたが、火事場の馬鹿力で何とかキープ
しまいには先生も「なんで鼻をおさえてるの?具合わるいの?」と質問攻めしてきましたが、私の返事は首を横にふるだけです。
結局私はその体勢のまま家まで帰り通しました。我ながら根性あるな…


顔面ドリブルされた事件

私の喋れなかったエピソードはまだあります。
ある時、教室にいたのは何故か私ともう一人の園児だけでした。帰り際だったのかな?記憶はおぼろげです。
先生も居ない中、どういう経緯でそうなったのかは覚えていないのですが、その園児が私の後頭部を掴み、私の顔面を壁に激しく打ち付けて来たのです。(マジで何故)
しかも1回ではなく、何回も壁に打ち付けて来て、まさに”ドリブル”でした。
私は当然口が切れて顔中血だらけに。まさにヤンキー漫画の世界です。
あまりの痛さに大泣きしました。そこで先生がかけつけたのですが、先生がくるちょっと前にその園児は顔面ドリブルを終了し、何食わぬ顔でその場で立っていました。
状況証拠は揃っています。2人きりの状況、顔面から血を流して泣いている子、何食わぬ顔でいる子
もう犯人は一目瞭然です。
あとは私の証言があれば完璧…なのですが、私はやっぱり喋れません。
先生「ねぇ、ちひろちゃん、何があったの?先生に話して?」
ちひろ「・・・・・・・・(大泣き)」
先生「何にも言わなきゃわかんないよ?誰かにやられたんでしょ?言ってくれたらその子を叱るから。お願い、教えて?」
ちひろ「・・・・・・・・(大泣き)」
先生「泣いてばっかりじゃわからないでしょ!!!何で何も言わないの!!!あんたそれ自分でやったのかい?!」
ちひろ「・・・・・・・・(大泣き)」
先生「もういい!先生は知りません」

最初は優しかった先生が、私の取り調べ中にどんどんボルテージが上がっていき、最終的に怒られました。
子ども心に「(なんで私が怒られるんだろう)」と思いました。

ちなみに例の園児も取り調べを受けましたが、もちろんしらを切ったのでお咎めなしでした。
怒られたのは私だけ。なんじゃそりゃ。笑
血だらけで帰った我が子をみた母は流石に憤慨し、幼稚園に色々言ったみたいですが、そのへんはどうなったか事の顛末は知りません。(どうでもいい)

私がここで強調したい事は、私は顔面ドリブルされても”喋れない”人間だったのです。すごくないですか?
マフィアの拷問でも口を割らない5歳児だったわけです。(今は黙れと言われても喋る大人になってしまいましたが)

余談ですが、この話をオフ会でした時、参加者の方から「それは壮絶ないじめ体験ですね〜」と言われ、私はハッとしました。
「え!!!これっていじめなんですか?!…いや、考えてみればこれ、完全にいじめだわ!うわ!今気づいた!!」
まさにアハ体験でしたね。
私は20年以上この体験をいじめだとは全く思っていなかったのです。多分それはやってきた園児への恨みってこれっぽっちもないからかな。名前も顔も性別も覚えてないし。
(ちなみにこれ以外、その後の人生で大きないじめにあう事はなかったのですが、これも私が気付いてないだけで本当はめちゃくちゃいじめられてたのかもしれませんね。)
私にとってはいじめられて辛いというよりも、”顔面ドリブルされた”という”驚き”の方が記憶に強く残っています。
だって普通に生きてて顔面ドリブルされる事ってまあないですよね?
マジでビックリしました。人生でビックリした出来事ランキングTOP5に入るレベルです。
もちろん、人生経験の少ない当時の私にとってはNO.1の驚きだったわけで、珍しく私の記憶に残っています。
今思い出しても辛いという感情はゼロで、むしろ顔面ドリブルをやった子はどういう心境だったのか気になります。
痛めつけるにしても殴るとか蹴るとか色々あるのに、”顔面ドリブル”って子どもにしちゃあトリッキーすぎると思うんですよね。

そんなわけで私の人生における、良かったのか悪かったのかよくわからない貴重な経験でした。


公文式全くできなすぎた事件

私の幼稚園はかなーり教育熱心で、幼稚園が終わったあと、公文式?というか塾的なのが開催されてました。足し算引き算、漢字…なんかを勉強してたらしいです。(全く記憶なし)
ある日、母が私を迎えに行ったところ、教室で一人だけ席につかずに走り回っている子どもが…先生が必死に怒鳴りながら追いかけている光景をみて、「うわぁ。あんな子の親は大変だろうなぁ」と思ったそうです。
その走り回っていく子どもがこちらに近づくにつれて、母は気づきます。「あれ?ちひろじゃね?」
そう、ちひろでした。
私としては、走り回った記憶はもちろん、公文式やった記憶すらないのですが…

私が覚えている事としては、その幼稚園は仏教系の園だったため、“お経の時間”があった事です。
あんまりにも苦痛だったので、毎週火曜日だったということまで覚えてます。未だに火曜日が何となく一週間で一番嫌いなのは確実にこのお経の時間のせいだと思います。
正座でじっとするのが無理すぎたんでしょうね。(今もですが)


左右がわからなすぎた事件

今でもあまり得意じゃない分野の一つが左右の判別です。この頃は本当にわかっていなかった…。
お遊戯の時間、”ビタミンCダンス”というのをやらされました。(どんなダンスやねん)
〜〜〜〜♪〜〜(歌詞全く覚えてない)〜〜〜♪ビタミンC!(ジャン)
と最後にビタミンCの”C”でCの文字を身体で表現する決めポーズがありました。
そして参観日にそのお遊戯が披露されました。
我が子が必死に(テンポ遅れで)踊っている姿に感動する母

そしてとうとうその時が訪れます
〜〜〜〜〜♪ビタミンC!(ジャン)
皆がCの決めポーズをする中、一人だけ逆方向Cを作る我が子…
先生が凄い勢いで駆け寄って、向きを修正します。
それをみた母は「この子って大丈夫なんだろうか」と思ったそうな。(結果大丈夫じゃありませんでした笑)

言い訳をすると、まずCという存在も知らないわけです。
その上、お遊戯なので相手から見た時のCを作らないといけないわけです。
つまり、通常とは逆のCを作らないといけないので、これでもうめちゃくちゃハードルあがります。
「何で人から見ると逆に見えるのか?」というのがリアルにわかりませんでした。(今でもよくわかりませんが)


妹をだっこしきれずに落とした事件

私には6つ程離れた妹がいます。私が年長?の時に彼女は生まれました。(ちなみに三姉妹で、私の上にはしっかり者の姉が居ます)
子供心に妹が生まれた喜びといったら凄まじく、とにかくはしゃぎました。
出産を終えた母が、生まれたばかりの妹を病院のベッドで抱いています。
「(なんて可愛いんだ!)」と思った私は、どうしても妹をだっこしたくなりました。
喋らない私ですが、家族にはコミュ障程度に話す事がこの頃には出来るようになってました。
ちひろ「だっこしたい」
母「重いからちひろにはまだ無理だよ」
ちひろ「だっこしたい だっこしたい だっこしたい」
母「う〜〜〜ん。本当に重いよ?大丈夫?」
ちひろ「だいじょうぶ」
母「本当に重いからね?絶対落としちゃだめよ?」
ちひろ「(頷く)」

そして母がゆっくりと妹を私に預けたその瞬間…
私はあまりの重さに、妹を落としました。
「あ〜〜無理無理〜〜助けて〜〜」とか言えば良かったのですが、そんな余裕は無く、本当に一瞬で落としました。
まるで”ししおどし”のように、手が瞬時に重さに耐えきれず落ちてしまったのです。
生まれたばかりにして無情にも床に落とされた妹…(ライオンじゃないのに…)
妹の鳴き声がこだまする中、母の怒号が飛びます。
「あんっだけ言ったのに!!!なんで落とすんだい!!!なんて事してくれるんだ!!」
怒られて当然です。
母に怒られた悲しさよりも、妹を落としたという罪悪感はかなりありました。(ごめんよ、妹)
しかし、私の妹はそんなトラブルにもめげず、すくすく良い子に育ったのでご安心を!


ダメと言われるとやっちゃう事件

私は”ダメ”という言葉に昔から弱いみたいです。
”ダメ”というのはまさに禁断の果実
ダメと言われれば言われる程、「何でダメなのか実践したくなる」癖があるんです。(でも犯罪はしないのでご安心を!)
その日も母がアイロンを指差してこういいました。
母「これ、めっちゃ熱いから、絶対に触っちゃだめだよ?いいね?」
ちひろ「(頷く)」
そして母の姿が見えなくなった瞬間、ソッコーでアイロンを触りました。(鉄板の方)
ちひろ「×△♪〜〜〜○×××△♪〜〜〜(言葉にならない叫び)」
駆けつけた母が叫びます「ダメって言ったそばからなにしてんのよ〜〜〜!」

そんな感じで私は”ダメ”に弱いのです。思えば幼稚園でもダメと言われた事は一通りやった気がします。(記憶がありませんが)


怒られすぎて円形脱毛症になった事件

これまでのエピソードの通り、私はかな〜〜〜〜り発達の遅れがありました。
その上、ダメと言われた事をやってしまう子どもです。
当然、幼稚園では先生に相当怒られていました。
結果、廊下に立たされた事が何度もあります。
何をやったとか、原因とか、全く覚えていないのですが、廊下にひたすら立っていた事は覚えています。
むしろ皆と一緒に教室で何かやってる時間の方が確実に短かったと思います。(記憶曖昧ですが)
「廊下に立たされるのってドラえもんの世界だけやろ」と良く言われますが、私にとっては結構当たり前の事で、小学校卒業までは余裕で廊下に立たされてました。(流石にバケツは持たされませんでしたが)
廊下に立たされるのはボーーっとしてればいいのでまだいいのですが、私がいやだったのは空き教室に放り込まれる事です。
空き教室で一人立たされている時、ひよこ組(一番年下の組)が授業で使うためにゾロゾロとやってきて、ひよこ組の先生が
「ここは今から使うから、出て行ってくれない?」と言ってくるんです。
怒られて惨めな姿を年下の園児に晒すのが嫌で嫌で…そして傷口に塩を塗る様な先生の発言…。
私にもプライドがあったんだな〜、と今になって思います。

当然、家でも親から相当怒られていました。
なんせ言う事をきかなかったみたいです。
私には年子の姉がいるのですが、彼女がまたそれはそれは優等生でして…幼稚園の先生からいつも母は褒められていたそうです。
それが私が入園したところ、幼稚園の先生から私の事で毎日のように怒られるようになったそうな。すごいギャップですよね。
育児本をアホ程読み漁っていた母は、この時代にしては珍しく、発達の存在も割と早い時期から知っていたそうです。そして、母自身私の事を「この子はもしかして普通じゃないのかもしれない」と軽くADHDを疑ったそうですが、最終的な結論として
「ちひろは早生まれだから発達がみんなより遅れているんだわ」となったそうです。
めっちゃ能天気。(確かにこの位の年齢の数ヶ月ってでかいですが笑)
結果として、良くも悪くも私がADHDと気付くのにその後20年近くの歳月を要するようになったのです。
すみません、ちょっと話がそれました。
姉の子育てが順調な一方で、私の子育てには母は相当苦労したみたいです。
とにかく毎日怒られてました。

発達の子どもが大人から激しい怒りをぶつけられる大きな原因の一つが”何回も同じ過ちをする”だと思っています。(これは大人になってもそうなんですけどね)
何回言ってもやらかす私に、大人達の怒りのボルテージがどんどん上がっていきました。
こんだけ怒ってもできない→あの程度の怒り方ではコイツにはわからんのだ!→前より激しく怒る→それでもやっぱりできない→無限ループ
大人からすると、何回言ってもわからない私という存在は、”怒られても効いてない”と思われていたため、かなり激しく怒られていたみたいです。(あんまり記憶がありませんが)

そんなある日、美容室で母が絶叫します。
美容師さん「すみません、お子さんの髪なんですが、こんな風に円形脱毛症(10円ハゲ)になってます」
母「ええええええええ!何ですかこれは?なんか病気ですか?」
美容師さん「う〜ん。私も詳しくないですが、良く言われてるのはストレスが原因とか。死ぬ様な病気とかではないですよ」
母「え!!うそ!!ちひろ、あんた何か悩みがあるの?」
ちひろ「・・・・・・」(相変わらず喋れない)

そんな経緯で発見された円形脱毛症ですが、あれよあれよという間に箇所が増え、大きくなってしまいました。
この頃の写真をみると、ハゲを隠すためにかな〜〜り不自然な髪型をしています。ガタガタのツインテールとか。
この一件で母は私を”意外と繊細な奴”認定しました。
実際それは間違っておらず、私という人間はこう見えて変な所で繊細だったりします。だから何だという感じですが。
幼稚園児にしてストレスで禿げるって結構すごくないですか?まあ何が凄いかと聞かれると答えられませんが。
面白い事に、円形脱毛症がわかってから、怒られる事が少なくなったかと言えば、全くそんな事はありませんでした。
やっぱりそれでも怒られていました。
ただ、母の中には怒る事への罪悪感が芽生えてしまったようで、怒られた後に「あんなにキツく言ってごめんね〜〜(泣)」と母が謝るようになったのです。(DV夫みたいですね笑)
子供心に「(謝るならやるなよな)」と思ったのを覚えています。

そんな感じでハゲに悩まされていた幼稚園時代でしたが、その後小学生になって大きなパラダイムシフトがおきます。
こんだけ悩んでいた(記憶無いけど)私が、180度考え方が変わり、人とも喋れるようになったきっかけの出来事がこの後起きます。
その出来事のおかげでハゲも無事に治り、スーパーコミュ障だった私にも友人が出来、学校を楽しめるようになったのです。(なんか怪しいセミナーの勧誘みたい)

それは小学校編でまた書きたいと思います。
幼少期編は暗い話が多いかもしれませんが、私自身はあまり気にしてません。というより、覚えてないです。忘れるって素晴らしいですね!

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